明日から俺の持ち物全てになるバックパックの隣で、片膝を立てて眠る男がいる。がらんどうの部屋の中、床に寝転んだまま閉じられた瞼のふちを目で辿っていると、瞳を閉じたまま男が言う。 「明日は早いんだ。いい加減寝ろ」 　なんだ…

「小麦粉、バター、砂糖にサラダ油……っと」 　ぽん、ぽん、ぽん、と作業スペースの上に材料が並んでいく。袋から取り出したそれらを確認するように眺めて、よし、と桜は頷いた。忘れ物はない。名前と同じ色のエプロンを身につけ、後ろ…

「あ」 　片手で戸棚の扉を引き、中を覗き込んだ体勢のまま、士郎は思わず声を上げた。それが制止の呪文だったように、夕食の段取りを思い描いていた頭もぴたりと動きを止めたが、すぐさま己の失敗を自覚して士郎の表情を曇らせていく。…

　葉が風にそよぎ、零れ落ちた光が煌めくように揺れるのを縁側から見つめる男が一人。眇めた目元には皺が走り、昔に比べれば幾分細くなった毛髪は、その色とあいまって綿花を思わせた。 　安寧を絵に描いたような光景だが、春先の風はま…

　ベッドのスプリングが不快な音を立てて鳴く。横たわる男の眠りを妨害したところで構いはしないが、知らず息を潜めていた。 　スタンドランプ代わりに、サイドボードに点灯させたまま伏せてある懐中電灯の光が、緩やかに上下する胸を仄…

　どこへ行くつもりなのか。 　世界を巡ると決めた日、斜陽の差し込むアパートメントの一室で、ひどく静かな目をしてお前は問うた。夕日が沈みゆく海の色をした瞳を見返して、俺は答える。お前が辿った道、お前が見つめた世界、お前を一…

　ざくざく。霜柱を踏む音。歩調から少し怒っているなと推測する。程なくして瞼の上に覆いかぶさる光。目を開くと、またざくざくと同じ音が遠ざかっていく。庭を横断する足跡。飛び跳ねるように辿って、歩幅の差に苦笑する朝。 　はふは…