Lycanthropy (DEAD END ver.)

※本編にて、土蔵内で二度目の獣化をしたアーチャーに自身の血を分け与えようと、士郎が工具で手を切ることを試みる辺りから分岐します。本編では最終的に血を与えませんでしたが、あの時、士郎がアーチャーに血を与えていたらどうなっていたか……という内容です。

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 しかし、その“言葉”は、幻聴としてしまうには、あまりにはっきりと耳に届いた。
 ――欲しい、と。
 それがなにを指しているかなんて、分かりきったことだった。
 アーチャーの身体から零れ落ちる魔力。その糧となる、生命の源泉。
 こんな状態でなければ、アーチャーはすぐにでも俺の腹を裂き、臓物を引き摺り出して血を啜りたいに違いない。
「…………」
 辺りを見回すと、ガラクタを修理するための道具が入っている工具箱が目についた。中にはドライバーやペンチなどの他に、導線を切るためのニッパーも入っている。
 しばし考え、アーチャーから離れると、工具箱を開いた。雑然と仕舞われている工具たちの中に手を突っ込んでガチャガチャと掻き分けていると、当初探していたニッパーとは別の道具が顔を出して、思わず声を上げていた。
「なんだ、こんな所にあったのか」
 取り出したのは、カッターナイフ。コイツの定位置は、自分の部屋にある文机の引き出しの中だが、大方、土蔵の整理をした時に荷造り紐を切るために持ち出して来て、そのままここに仕舞ってしまったのだろう。
 片付けをなおざりにしていたことは反省点だが、いまに限っては棚からなんとやらだ。同じ「切る」道具でも、断ち切ることを得手としているニッパーよりも、切り裂くことを目的に作られたカッターナイフのほうが今回は適任だろう。
 スライダーを押し上げ、本体から刃を繰り出す。土蔵に射し込む月明かりに照らされて、刃先に灯る鈍い光。
 その光で掌に一文字を描くように、刃先を横に引いた。
「っ……」
 ズキズキという痛みと共に、赤い文字が浮かび上がる。それと同時に、荒い息を吐いて喘ぐように呼吸を繰り返していたアーチャーが、ぴくりと身体を震わせて反応を示した。
 ひた、と向けられる鋼色の瞳。あの苦しみようでは意識は朦朧としているだろうに、視線はブレることなく、こちらの手元を凝視している。強い意志の籠もった鋭い眼差しは、獲物に狙いを定める野生のそれだ。
「――――っ、」
 ごくり、と無意識に唾を飲み込んでいた。喉元に牙を突き立てられる嫌な想像が脳裏を掠め、身体が見えないピンで留められたように動かせなくなってしまう。薄氷を踏むようなやり取りの末、少しでも和らいだと思えた空気は一瞬にして霧散した。あとに残ったのは、狩る側と狩られる側という立場だけだ。
 性的な欲求は、いまや食欲に取って代わり、庇護すべき対象と定めていたものは、こちらを捕食するモノに成ってしまった。しかし、ここまでの変わりよう、執着のしようは、やっぱりアーチャーは血を求めているという証左でもあろうと思い直す。
「――よし」
 気持ちを切替えるように頷く。傷口から次々と滲み出てくる血をこぼさぬよう、手でお椀の形を作ると、意を決してアーチャーへ歩み寄った。
 じり、と一歩を進めるごとに、肩にのしかかるプレッシャーが増大する。微かな呼吸も、身じろぎすらも憚られるような空気が肌を刺し、僅かでも音を立てれば、すぐさま狩られてしまいそうな緊張感が身を竦ませた。
 それでも、アーチャーの求めに応じたいという、その一心だけで足を前に進める。一間にも満たない距離が、酷く長く思えた。
 そうして、何度目かのためらいを踏破して、ついにアーチャーの元へたどり着く。一人と一匹のあいだに残されたのは、塗炭の苦しみを訴える獣の呼気が、足に伝わるほどの距離だけだ。
 真っ直ぐに腕を伸ばし、アーチャーの顔の真上に手のひらをかざす。
 手椀の中に溜まっていた血液は、重力に倣い、赤い雫となって落ちていく。
 喘ぎを漏らす口の端に、赤が染み込み消える。その、瞬間。
「――――え?」
 呆気に取られた声を漏らすのが精一杯だった。
 視界の中にあるべきものが無い――否、ほんの瞬きのあいだに無くなった。その光景が信じられず、然して現実に起きた出来事を、頭は何とかして理解しようと努めている。
 けれど、頭が解るより先に、喪失感が吐き気となって腹の底から込み上げてきて思考が中断される。寒気で、頭の芯が痺れる。だが、吐瀉物より先に土蔵の床を汚したのは、手首から溢れ出る夥しい血液だった。心臓が収縮するのに合わせて、ビシャビシャと節操なく血を溢れさせる。
「あ、あ……っあ、うわああああああ――――!」
 そして、廻りの悪い俺の頭は、最悪の事態が起きたことをようやく悟った。
 喰われた。令呪のある左手を喰われた――!
 恐怖に慄く俺の目の前で、どすん、と、重い麻袋でも床に叩きつけたような音が立ったが、音の発生源であるアーチャーの様子を確かめる余裕もないまま、弾かれたように踵を返す。焦りからもたつく脚に苛立ちながら鉄扉に駆け寄り、片手でどうにか閂を外すと、転がるようにして土蔵から飛び出した。
 開いた鉄扉の先、白々とした月明かりに照らされた庭が、暗がりに慣れた目に飛び込んで来て少しだけ目が眩む。屋敷に灯る明かりは無く、一層白く輝く庭は寒々しいほど美しかった。日常から隔絶したような景色は、それでも、いつだって自分が目にしてきた光景だ。どれだけ現実感が薄くとも、異常となりえることなどない。けれど、土蔵の中の異形と、身に起きた異常は、全身で理解を拒んだとしても暴力的な強引さで俺の現実に押し入ってくる。
「はあっ……はあっ…………」
 混乱を抱えたまま走り、土蔵の反対側、庭の端まで到達したところで足を止めた。
 それから、視線を、  へ向けた。
 あるべきものが無い虚空を見つめた。
 廻る場を失った血液が、手首の先から流れ出るのを見遣った。
「………………」
 信じられない心持ちだった。あの一瞬でなにが起きたのか、未だに理解が追いつかない。
 しかし、脅威アーチャーから距離を取ったからだろうか、手当てをしなければ、と、冷静に考えられるようにもなっていた。……いや、あまりに混乱し過ぎて臨界点を越えたのか。とにかく、早く止血をしなければ、セイバーと契約してからこっち、謎の治癒能力を手にした俺だって、失血ですぐに参ってしまうだろう。
 ひとまず上着として着ていたジャージを脱いで、ぐるぐると腕に巻きつけていく。そうして応急処置をしながら、数刻前に自分がセイバーへ言ったことを思い返していた。
 万が一危険があれば、令呪を使ってセイバーを呼ぶ。いまがその万が一であるのに、その切り札を失ってしまった。
 心配げな顔で俺を見ていたセイバーの様子を思い出して、約束を守れなくなってしまったことを申し訳なく思う。いや、それよりも、サーヴァントとの契約の証を失ったマスターはもう用済みだろうか――そんなことを考えていた時、背後からブチブチと、なにかを引き千切る音が聞こえてきた。
「――――っ!?」
 咄嗟に振り向き、土蔵の中の暗闇を凝視する。
 なにか、なんて、そんなの分かりきっている。
 ロープを強化し、アーチャーを縛って拘束したのは俺なのだから。
 早く土蔵の扉に走り寄って、閉めなければ。そう思うのに足が竦んで動かない。それにあの扉は、閉めたところで内開きの上に中からしか鍵が掛けられないという迷惑仕様なのだ。
(ああもう馬鹿! 考えてる暇があるなら、身体を動かせってんだ馬鹿野郎――!)
 己自身を叱責して、闇と対峙する。生憎、道場から持って来た木刀は土蔵の中に置いてきてしまった。だから、反撃の手段は無いし、起死回生をもたらすような策も当然無かった。でも、セイバーたちが戻って来るまで、ヤツに腕一本くれてやる覚悟で臨まなければ、アイツを止めることなんて出来ないだろう。
 断続的に続いていた音はやがて聞こえなくなり、黒の中から滑り出るように白が生まれ出る。月光に輝く白銀。月の光を食べ、身の内から発光しているかのよう。
 しかし、ヤツの腹の中に収まっているのは、そんな霞みたいなものではなく俺の肉で、いま俺の目に映るものの中で一番美しいものが、一等おぞましいモノだった。
 自由を得た獣が狙いを定めて、鋭い視線をひたとこちらへ向けてくる。
 捕食者の目。土蔵の中でも向けられたものだが、アーチャーが拘束されていた時とは比べ物にならない緊迫感が心臓を締め上げる。しかし、その圧に負けて少しでも視線を泳がせれば最後、一息でアーチャーの牙が俺の首に突き立てられることだろう。
 視線で牽制され、微動だにできない俺とは打って変わり、アーチャーはほとんど地面に伏せるような体勢に移行していた。目線を水平に保ち、獲物までの距離を測っている。
 本当なら、こんなケダモノの相手など、俺には荷が勝ち過ぎている。当たり前だが力の差は歴然で、相対して良いものではない。屋敷から飛び出して遮二無二逃げて、セイバーたちと合流するほうがよほど現実的だ。でも、彼を衛宮の家から外に出す訳にはいかない。アーチャーが遠坂に頼んでいたこと――なんとしても、それだけは回避したかった。そのためには、やはり、戦うための武器が必要だ。
 当面の目標は、アーチャーの牙をどうにか躱し、土蔵の中の木刀を拾う。そのあとのことは、その時に考えるしかない。
 狙いすますアーチャーを見据えながら、地面を蹴って横へと走り出す。と、ほとんど同時にアーチャーが飛んだ。凄まじい跳躍力で俺との距離を詰め、目の前の獲物を逃がすまいとカッと大口を開く。ずらりと並んだ牙が、月明かりに照らされて鋭い光を帯び、迫る。それらを視界に収めたまま、脚に魔力を通して強化する――!

 グシャ。

 それは、どこから立った音だったのか。
 あれ? と、思ったときには、俺は右肩を地面へ強かに打ちつけていた。
 自分が倒れた音を聞いたのか。いや、その前に俺の耳はその音を拾っていた。
 グシャ。バキ。バリバリ。グチャグチャ。
 どうして、と横倒しになったまま呆然とする俺の耳に、不快な音が不協和音の如く立て続けに聞こえて来た。
 見たくもないのに、視線は音の方へ導かれる。
 悲鳴を上げることも忘れた。だって、あまりにも、その光景は現実味が欠け過ぎていたから。
 どうして俺の左脚は、膝下から無くなっているのだろう?
 どうして白銀の獣が、見覚えのあるシューズを履いた脚に喰らいついているのだろう?
 どうして――?
 湯を沸かした鍋から上がる気泡のように、浮かんでは消え、また浮かび上がる疑問は、やがて圧倒的な現実感を伴って俺の頭をガツンと叩いて震え上がらせた。
「あ、あ、あああ……!」
 痛みよりも絶望に声を上げた。このケダモノを、ヒトの物差しではかることなんて出来ない。その能力も、その思考も、そこから導き出される行動も――そんなこと、左手を喰われた時点で理解しているべきだった。
 けれど、そんな後悔など、いまさら何の役にも立たなかった。見誤ったのだ、と、その事実だけが愚か者の上にのしかかる。
 体温と共に、身体からじわじわと失われていく命の流れが赤い河となり、俺の脚を貪り喰っている獣の足を染めていた。距離を取らなくてはと思うのに、左手と左脚を失った状態では、立ち上がることもままならず、地面を這うようにしか前進出来ない。ほとんど開かない距離に気持ちばかりが急いて、それでも歯を食いしばりながらなんとかアーチャーから離れようと試みる俺の背に、さらなる絶望がのしかかった。
 ぐ、と背中を押す感触。
 生温かな息と血のニオイが首筋を撫でる。
 耳には獣の唸り声。
 “逃さない”――と、声なき声が俺に囁く。
 恐る恐る振り向いた先には、うしろに背負う月よりもなお爛々と目を光らせたケモノが、その牙より先に眼光で俺を刺し貫いていた。
「アーチャー……止め……」
 制止の言葉は、それ以上続くことはなかった。獣の口が俺の首を挟み、次いで牙が喉に刺さった。息が出来ない。身体中の血が流れ込んで来たかのように、目の前が赤に塗り潰される。
 バキバキバキと自分の頚椎が砕けていく音を聞きながら、俺の意識はストンと闇に落ちて二度と光を感じることは無かった。

DEAD END