「はあ……」
疲れをまとった溜め息が、口から漏れた。
うねるコンクリートを掴む足取りは、ヨタヨタという形容がぴったりだ。肉体的な疲労というより、精神的な面からきているものが大きい。
ふと視線を上向けると、壁のように立ち並ぶアパートに狭められた夜空がある。川をはさんだ向かい側には街の中枢とも言えるエリアが広がっているので、街の灯りに照らされてうっすらと雲が広がっているのが確認できた。星がひとつも見えないのは、そのせいだ。
「――はあ」
また溜め息。
疲れているのだ。昔から、自分のこととなると途端に鈍くなると言われ続けてきた俺でもさすがに分かる。
少しでも星を眺めることができたなら気晴らしになったかもしれないが、曇りがちな日の多いこの地域では、その効果を望むのは期待薄だろう。
イギリスの首都、ロンドン。魔術師の総本山、時計塔がある土地だ。
冬木の聖杯戦争に参加したことで、俺の周囲の環境はがらりと変わった。その最たるものが、俺をロンドンに連れて来た張本人である遠坂凛との関係だ。
いままで遠くから眺めるだけだった憧れの女の子が、自分と同じ――と言ったら遠坂に怒られるだろうが――魔術師で、聖杯戦争中は協力関係を結ぶに至り、いまとなっては俺の魔術の師匠なのだから。
在学中からロンドンに足を運んでいた遠坂に急かされる形で、高校卒業後すぐに俺は日本を発ち、慣れない土地や文化、慣習にあたふたしつつ、遠坂の使いっ走りをしたり、アルバイト先を見つけたり――と慌ただしくしていたら、気がつけば一ヶ月は飛ぶように過ぎていた。
ここに来ることを決めたのは自分の意思だけど、サムライの国だろうが、紳士の国だろうが、遠坂と一緒にいる限り、俺は彼女に振り回される運命にあるのだろうなあ、と思う。
……なぜって、いま俺が疲労困憊になっているのも、贔屓目に見ても半分くらいはアイツのせいなのだから。
「遠坂も、もう少しルヴィアさんと仲良くすればいいのになあ。二人の張り合いに毎度巻き込まれてたら、身体がいくつあっても足りないぞ……」
けどまあ、あれはあれで、仲が良いと言えるのだろう。遠坂も生き生きしてるように見えるし、切磋琢磨できる友人がいるってことは良いことだと思う。
うんうん、と頷きかけて、ふと気づく。
「なんか遠坂の親みたいなこと考えてるな、俺」
可笑しくなってしまって、思わず笑みがこぼれた。そのおかげか少しだけ心がほぐれ、いつの間にかヨタヨタだった足取りもテクテクくらいには回復していた。
ここは学生にはそれなりに人気のある住宅地の一角だけど、家賃が高くない代わりに治安もそれほど良くはない。いまだって、少し離れた場所でパトカーのサイレンが鳴り響いている。
たとえ男でも、夜道の一人歩きでのんびりしていて良い場所とは言えないので、早くアパートに辿り着くことに越したことはないだろう。
それに、連絡もなしにあまり帰宅が遅くなると、同居人が心配して探しに出てくる可能性もなくはないはずだ。……たぶん。
「ただいま――って、あれ?」
玄関のドアを開けると、その先のリビングは真っ暗だった。カーテンの閉められていない窓から向かいのアパートの灯りが覗いていて、それが部屋の中を薄ぼんやりと照らしている。
三階建ての集合住宅。その内の一室が、俺と、同居人であるアーチャーのロンドンにおける住処だった。勿論、同居人というのは言葉の綾で、アーチャーは俺の使い魔――サーヴァントだ。
つまり、互いにパスが繋がっていれば、たとえ離れていても存在くらいは認識できるのだが……部屋の暗さに驚いている時点で察して欲しい。
「アーチャー?」
ドアを閉めつつ部屋の奥に向けて呼びかけてみたが、反応はない。まさか先ほど想像した通り、アーチャーは俺を探しに出てしまったのだろうか。
しかし、ここで俺がアーチャーを探しに出ては入れ違いになりかねない。家で大人しく待っているのがベターだろうと、玄関先でスリッパに履き替えて、ドア横にある電気のスイッチを押した。
パチン。
「――む?」
スイッチの入る音は立ったが、部屋の中は依然暗い。
思わず天井に視線を走らせたが、我が家の電灯は素知らぬ振りで天井に貼りついている。どうやら、電灯から直接ぶら下がっている紐で電気を消したらしい。
仕方がないので、お向かいさんからの僅かな光源を頼りに部屋の中央まで歩みを進める。しかし、電気の紐に手を伸ばした瞬間、視界の端になにかの気配を感じて、俺は咄嗟に身構えた。先述の通り、治安があまりよろしいとは言えないエリアに住んでいるのだ。なにかあったとしても可笑しくはない。
「……って、なんだアーチャーか。脅かすなよ」
見知った顔に、ほっと肩の力を抜く。
部屋の隅、玄関からは死角になっている場所に、アーチャーはなにをするでもなく突っ立っていた。ぼんやりとした様子に、アーチャーらしくないな、とは思ったものの、怒っているとか、そういった不穏な空気は感じられない。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
出迎えの言葉に、怪訝に思う気持ちはすぐに消え去った。
「どうしたんだ? 電気も点けないで」
素朴な疑問だけが俺の中に残る。意識は再び電気に向けられて、俺は先ほど引っ込めた手をもう一度紐へと伸ばした。瞬間。
「――ッ!?」
どんっ、と身体に衝撃が走り、掴み損なった紐は手の中をするりと抜けて、視界から消えていった。代わりに、ぬっと黒い影が眼前を覆い、その影ともつれ合いながら俺は床へと倒れ込んだ。
ごん。勢い余って打ちつけた後頭部から不穏な音が立つ。
覆い被さる影――もといアーチャーは、一瞬動きを止めたものの、聞こえなかったことにすると決めたみたいだ。唖然としていた俺の口に自分の唇を重ねると、遠慮なく舌を捩じ込んで来た。半開きだった口は、柔く温かな肉を受け入れて拓かれていく。
「ん、ふ」
性急な舌づかいに呼吸が追いつかず、くぐもった息が漏れる。一方のアーチャーは、息を漏らすのも厭うように終始無言のまま、俺の咥内を蹂躙し続けている。舌と唾液を絡め取られ、じゅ、と音を立てて吸われると、身体の芯にじれったい痺れが走った。
(最近、ご無沙汰だったからなあ)
唇を貪られながら、内心で苦笑する。
無理をさせているのだ、と申し訳なく思う気持ちもあったが、それ以上に、この状況に対して、肌が粟立つほどに気持ちが昂ぶっている自分がいる。
耳すらも嬲るような水音が、更に興奮を助長した。
「んん、ふ、ふ……」
もうすでに、誤魔化し切れないほど形を変えつつあるものが、互いの腿に押し当てられている。唾液と粘膜の接触によって魔力を奪われているので、疲労が増していないと言えば嘘になるが――いわゆる疲れマラというヤツだろうか。
再びの苦笑が胸の裡に広がる。自分への呆れ半分、目の前の従者への呆れ半分。普段は(俺に対しては)ずけずけと物を言うクセに、こういう時はギリギリまで黙っているのだから本当に手が焼ける――でも。
たまには、こんな風に求められるのも悪くないと、魔力が吸い上げられていくのを感じながら思ってしまう俺は、少しばかり悪いマスターなのであった。(了)