「お前じゃないと、いやなのに」
ぼそり、と呟かれた言葉に、アーチャーはハッとして顔を上げた。
安宿の一室。点かなかった照明の代わりに、フロントから頂戴してきたロウソクの炎が隙間風に揺らめいている。
明と暗がさざ波のように揺れ動く部屋の中で、揺蕩う灯明に照らされた士郎の横顔を、アーチャーはまじまじと見つめた。鋼色の瞳が映すその面貌は、時間の経過だけでは量ることのできない成長を遂げた青年のそれであり、しかし、顔を俯けて唇を引き結んでいるさまは、駄々を捏ねる子供のそれであった。
髪や瞳、それから肌の色も――十数年前と変わらぬ青年の、久しぶりのかつての面影を感じ取ってアーチャーは感慨深く思う。出会った当初は、この先、罪を犯すであろう彼を殺すつもりで。その後は、彼が道を踏み外した場合の保険として――その警戒は杞憂のまま、こうして二人、時を重ねてきたのだというアーチャーの懐旧の情を知る由もなく、士郎は黙したまま、表情を険しくしている。
旧友に「気が短い」と指摘されるほどには直情的な士郎ではあるが、それも十代の頃の話。三十路を目前に控えた今となっては、我を飲み込んで公と折り合いをつける大人の所作を、TPOをわきまえて使い分けることができるぐらいには年齢を重ねている。けれど、彼の中でどうしても納得できない事柄については頑として譲らないという頑固さも、この青年が少年の頃から手放さずに育んできた個性の一つだった。
どうやら今回は後者の面が出たらしい、と、アーチャーは内心で溜め息をつく。
事の発端は、士郎が唇を引き結ぶ数分前、アーチャーが発した言葉だった。
「そろそろ、恋人でも作ったほうが良いんじゃないか」
宿近くの市場で夕食を摂り、就寝前のひとときをささやかながら満喫していた時だった。アーチャーの何気ない言葉に、士郎は琥珀色の瞳を丸くしてしばらく固まっていた。まるで外国の言葉で話しかけられた人のように、言葉の意味を理解出来ずにいる様子だ。言うまでもなく、アーチャーは二人の母国語である日本語で話している。
そんな士郎を余所に、アーチャーは更に言葉を重ねる。
「お前もそろそろ生涯の伴侶を得ても良い年頃だろう。何、いきなり結婚前提で交際を申し込めと言っているのではないさ。ただ、そういったきっかけ作りくらい、したほうが良いんじゃないかと思ってな」
この方面に関して、己とて士郎に先輩風を吹かせることが出来るほど深い関係を築いた試しは無いのだが。風化した記憶の中でも、生前、士郎くらいの年の頃には、既に恋人と呼べるような存在がいたことは微かに覚えている。
一方の士郎はと言えば、貧困地域へのスタディーツアーとボランティアの繰り返しばかりで、浮いた話一つ聞かないのだ。そういった活動をしていれば、士郎と同じとまではいかずとも彼の志に理解を示してくれるような人物に巡り会う可能性もあるだろうに。
人並み程度には異性への興味があることは彼が少年の頃から知っているし、性欲だってちゃんとあることもアーチャーは知っている。だから、士郎が恋人を作ろうとしないことに対して、足枷になっているのは自分の存在があるからではないのかと、アーチャーはかねてから考えるようになっていた。
アーチャーが士郎のサーヴァントである以上、契約をしているマスターとは一連託生。使い魔を使役する魔術師は、常に魔力を供給し続ける必要がある。加えて、元を同じくする存在であることの弊害なのか、霊的な方面からの魔力供給が安定しない二人にとって、肉体的なパスを介しての魔力供給がスタンダードな方法であった。
つまりは、性交による同調。定期的な性交渉をアーチャーと行っている士郎にとって、恋人に誠実であろうとするならば、その恋人を作らないという選択肢以外存在しない。
自分とは別の道を歩まんと模索する衛宮士郎を一人の人間として大切に想っているからこそ、彼には人並みの幸福を掴んで欲しい。かつて抱いていた疑念はすでに氷解し、アーチャーの杞憂は現実のものとなりつつある。ならば、士郎との契約を解消することもやぶさかではないとアーチャーは思う。
そんな想いから、先刻の発言をするに至ったのだが――当の士郎は短く抗議を申し立てたあと、不穏な空気をその身にまとわせてだんまりを決め込んでいる。大人ひとりが通るのもやっとの幅しか離れていない二つのベッドそれぞれに座り込んだ二人のあいだには、現実の距離よりも尚大きな溝が横たわっていた。
しばしの沈黙ののち、まとっていた空気を払うように、はあ、と深く息を吐いて士郎が立ち上がった。
「……ちょっと、外出てくる」
思わず見せてしまった失態を誤魔化すように、士郎は短く言ってアーチャーの前から辞去しようとする。安宿らしく、簡易ベッドのスプリングは錆びていて、それが士郎の体重移動で悲鳴のような音を立てた。そして、その音を追いかけるように、ギッと同じ音がまた鳴った。
「………………」
「………………」
士郎の動きが止まる。そして、アーチャーもまた、中途半端に立ち上がったまま動きを止めていた。二人の視線だけが動き、同じ場所へ向けられる。士郎の腕を掴む、アーチャーの手へ。
行動を起こした当人であるアーチャーのほうが、自分の行動に驚いたのか僅かに瞠目していた。士郎の動きを阻んだものの、どう説明したものかとアーチャーは逡巡し、やがて観念したかのように口を開いた。
自分の身の内に抱いた想いを口にする気恥ずかしさだとか、そんなことを気にしている場合ではない。正直に言わなければ、士郎はどうやったって納得などしないだろう。
「……お前のことを思って言ったんだ」
「――――――」
ぽつり、と小さく呟かれた言葉に士郎は眉を寄せた。なにを言っているんだ、とアーチャーを糾弾するような厳しさが、彼の眉間に刻まれる。長いこと共にいて、皮肉屋の裏にある彼の人となりは誰より理解してきたつもりだ。情を交わした夜だって、両の手だって足りないほど重ねてきた。マスターとしての義務を加味したとしても、そこになにも生まれないと思っているのか、この弓兵は。
けれど、怒りの言葉をぶつけたい気持ちを抑えて、士郎はアーチャーの言葉を待つことにした。こちらの言い分をアーチャーに分からせるのは、彼の考えを聞いてからでも遅くはない。
士郎の思惑通り、アーチャーが口を開く。
「私は、お前に人並みの幸せを掴んで欲しいと思っている。それが、誰かと結ばれることだと決め付けるつもりは無いが……オレといることで、お前の可能性が失われるのは嫌なんだ」
訥々と、アーチャーは己の想いを吐露する。まるで懺悔のように、自分の存在が士郎の未来を閉ざすかもしれないと、彼が抱く懸念を口にしている。
「だから、伴侶を得たほうが良いと言った。お前のことを良く思ってくれている人はたくさんいる。だから――」
「――やめようぜ、アーチャー」
士郎の声がアーチャーの言葉を遮る。アーチャーの手に士郎の手が重なり、やんわりとその拘束を解くと、士郎はアーチャーに向き直り、その手を握り直して言う。
「いま考えたってしょうがない可能性の話をするのは、やめよう。お前が俺を赦したように、俺の未来を信じてくれたように――俺がまだガキだった頃と今じゃ、状況は変わってるじゃないか。アーチャーが俺の未来を閉ざすなんて、そんなこと考えるだけ無駄だよ」
それにな、と士郎は続ける。
「お前、俺の気持ちを蔑ろにし過ぎだ。俺の未来に関わることなら尚更だぞ。だって、俺は、お前じゃなきゃ――いや、お前が良いって思ってるんだ」
そう言って照れ臭そうにはにかむ士郎を見てアーチャーは思った。彼は、誰をも救いたいと願いながら、誰か一人をも選び取れる人間なのだと。いつかの自分とは違う、同じ「衛宮士郎」でありながら、その選択ができる人間なのだと、アーチャーは思い知らされる。
――変化し続けるのが、いまを生きる人間の特権なのだ。
その前提を失念していた自分に、アーチャーは内心苦笑していた。
「……貴様、碌な人生を歩まんぞ」
「それは……うん、もう覚悟の内だからしょうがないな。でも、アーチャーが一緒なら、なんとかなるだろ」
「なにを無責任な。毎度無茶をして、肝を冷やされるこちらの身にもなってみろ」
アーチャーの文句に、先程までの不機嫌など微塵も感じさせぬ顔で士郎は笑う。
そうして、ゆらりゆらりと揺らめく炎に照らされた壁に映る二つの影はやがて重なり合い、薄っぺらいベッドの一つに溶けるように沈み込んでいった。
(了)
お題:「お前じゃないといやなのに」をお題にした士弓のえっちなお話
お題お借りしました → 「えっちなお話書くったー」https://shindanmaker.com/a/590092
えっちなお話じゃなくなった(途中で挫折した)のは大変申し訳ない…