年明けに初めて開かれたマーケットは、冬の寒さが幾分やわらぐと感じるほどの賑わいだった。近代化が進み、露店で物を売る文化が廃れつつある土地だが、このマーケットだけは別物らしい。
新年を祝う意味合いもあるのだろう、通常のマーケットで目にするような店もあるが、それ以上に目立っているのは縁起物の工芸品を取り扱う店だ。訪れた人々も、人波に揉まれながらも、こぞってその縁起物を買い求めている。
いつもは必要最低限の買い物しかしない士郎とアーチャーも、初市が開かれる時期に居合わせたという物珍しさから、冷やかし半分でそのマーケットを訪れていた。マーケットに参加した者の宿命として、彼らもご多分に漏れず、ほとんど強制的に前へ前へと進まされている。その中で、目当ての物を売る露店を見つけたのならば、強い意志を持って突撃しなければならないのだが。通りいっぱいに広がった人々が作る流れの中、元より冷やかし程度の心持ちの二人は、水に漂う浮き草の如く流されるがままだ。
露店の中には食品類や工芸品だけでなく、子供が喜ぶような菓子を売っている店もあった。人波の中で、ぼんやりと人々の様子を眺めていた士郎は、屋台先できゃっきゃとはしゃぐ子供たちに目を留めた。屋台の中では、夫婦と見られる老齢の男女が共同で作業を行っており、球体を半分に割った形のくぼみが並ぶ鉄板で、パンと饅頭の中間のような菓子を焼き上げて販売していた。男性がクリーム色の液体を型に流し込み、その中へ女性が餡を落としていく。型に材料を入れた後は、しばらく焼いたのちに竹串でひっくり返して反対側も焼く――という一連の作業を、子供たちが目を丸くして見つめている。その様子を見て、士郎は目を細めた。
ここは平和だ。新年を言祝ぐ気持ちで溢れている。
例え、これが一時のものだとしても。士郎が真に求めるような平和ではないとしても。
この幸福を糧に、明日も明後日も、その先も――皆が生きていけるのならば、それは少しでも自身が願う世界の姿が続いていくことだと信じたかった。
無抵抗の二人は、ほどなくしてメインの露店エリアを抜けることとなった。大勢の熱気に充てられて、多少の息苦しさを感じていた身体は、無意識にほっと安堵の息を吐く。
辿り着いた先は開けた場所になっており、休憩スペースとして使われていた。リールタップから電源を供給されている暖房器具が設置され、その周りを取り囲むように人々が円を描いている。顔見知りなのか、偶然居合わせた他人なのか定かではないが、時候の話題を口にする彼らの手の中には、仄かに湯気を立てる紙コップが握られていた。
辺りを軽く見晴らすと、近くに設置されたテントの下で、件の紙コップを来場者に手渡す女性たちの姿があった。ガスコンロの上に設置した大きな鍋から薄茶色の混濁した液体をお玉で掬い、紙コップに注いで配っている。金銭をやり取りしている様子は無く、ハレの日のサービスのようだった。
人々がひしめき合っている露店エリアに比べれば、ここは風通しが良い。しかし、逆を言えば、木枯らしが我が物顔で通り抜けて容赦なく体温を奪っていく場所でもあった。冬の寒さの中、マフラーやコートの襟に赤らんだ顔を埋めて、ふうふうと白い息を吐く人々にとっては、それらはありがたい心遣いだろう。
「そら」
声と共に、ずい、と紙コップが士郎の目の前に現れた。いつの間にか、アーチャーが例のテントに赴いて貰って来てくれたらしい。
「お、サンキュ」
礼を口にしながら紙コップを受け取ると、手袋越しでも仄かな温かさがじんわりと伝わって来た。紙コップに向けて、ふうっと息を吹きかけると、湯気と共に酒精めいた香りが立ち上る。遠目ではよく分からなかったが、日本で言うところの甘酒のようなものらしい。
「――ふむ。麦を主原料に作っているみたいだな。麹と蜂蜜と……これはシナモンか? 他にもいくつかスパイスが混ざっているようだが……」
ぶつぶつと独りごちながら、アーチャーが興味深そうに飲み物を口にしている。ローカル色の強い飲み物なのか、アーチャーも見るのは初めてらしい。手の中の紙コップを覗き込む様子は、先程目にした子供たちの姿を想起させて、士郎は内心で微笑ましく思いながら、軽く頬を上気させているアーチャーの様子を見るともなしに見た。
(やっぱり、寒そうだ)
本人がこれで十分だと言うので口煩く言うことはしなかったが、マフラーにコートに手袋――と、寒さ対策万全な士郎とは打って変わって、アーチャーの防寒着と言えばモックネックセーターの上に羽織っているロングコート一枚だけで。それで悪目立ちをするようなことはなかったが、もっと着込まなくて大丈夫なのかと士郎が心配するくらいには気温の低い日和だった。
アーチャー曰く、サーヴァントに暑いも寒いも無い、とのことだが、士郎は常々思う。
例えば、あの聖杯戦争の中で、己が投影した剣をアーチャーの腹に突き立てた時。例えば、この旅の中で――大抵は士郎に原因があるので、振り返ると苦い思いをするのだが――アーチャーが思わぬ怪我を負った時……普通の人と同じように、彼は血を流すのだ。
サーヴァントは影のようなもの――というのもアーチャーの言だが、エーテルで構成された肉体が、ガワだけでなく、人体を構成する要素を血液に至るまで再現しているというのであれば。そこには体温が生じ、サーヴァントであっても暑い寒いを感じるのではないか、と。
以前、その考えをアーチャーに披露した際には、そう感じることさえも幻のようなものだと一蹴されてしまったのだが。しかし、アーチャーの言い分は、ようは気の持ちようだと言っているに過ぎない。それはつまり、感覚として生じていると言っているのも同義な訳で――だから、アーチャーに自身の考えを否定されたところで士郎も改める気はなく、今も、寒中に晒された彼の手を温めたいと思ってしまう。
傍目には分かりづらいが、アーチャーと並び立っていた士郎には、彼の指先が仄かに赤く染まっていることが見て取れた。紙コップの中から漂う湯気とは異なる白いものが、アーチャーの口からふわりと空中に散っていく様も。
(……やっぱり、寒そうだ)
口には出さず、しかし、もう一度そう思って、士郎はアーチャーから渡された紙コップを口元に寄せて傾けた。アーチャーが分析していた通り、シナモンの後に複雑なスパイスの芳香が追いかけるように鼻を抜けて行く。
母国で作られる飲料に似たそれは士郎の思い出を刺激して、子供の頃に戻ったかのような懐かしさが湧き上がり、胸の中がじんわりと温かくなった。冬木の、あの武家屋敷で暮らした日々。共に過ごした人々。栄養食品の代わりに、季節外れの甘酒を切嗣に作ってやったこともあった。
アーチャーも覚えているだろうか? 否、自分の思い出と彼の記憶が、完全に一致するとは限らないけれど。それに、アーチャーにはもう“衛宮士郎”の記憶など無いと、かつてアーチャー自身がそう言っていた。かろうじて覚えているのは、ほんの一部の僅かな記憶だけなのだろう。
そのことに、胸の中に広がっていた温かさが急速に温度を下げていくのを士郎は感じていた。
温めたい、と。温めることは出来ないのか、と。
そう自問自答して、晴れ渡った冬空の下、アーチャーの姿を眺めていた。
*
「――っ、ふ」
漏れ出そうになる嬌声を息を詰めることで抑えながら、アーチャーは己を組み敷く青年の姿を見上げた。
天井照明は点けず、備え付けのサイドボードに置いた自前のランタンの明かりだけが照らす部屋の中で、その灯火を背にしている士郎の顔には影が差し、浮かべられた表情を覆い隠していた。
しかし、アーチャーの目をもってすれば、そんな影など無いも同然で。身体を這い回る手の動きに快感を引き出されながらも、士郎の様子をうかがいながら内心でやれやれと溜め息を吐いていた。
午前中に行った初市から帰って来てから、士郎の様子がおかしい。
ぼんやりしていて何かヘマをするとか、アーチャーに迷惑をかけるといったことは無いのだが、少し落ち込んでいるというか、ナイーブになっているというか。士郎から思い詰めた顔でベッドに誘われた時には、何事かとアーチャーは目を剥いた。
しかしながら、士郎がそうなった原因の目星はついていた。大方、初市で見た何か――訪れていた人々の様子か、士郎が目を留めていた子供たちか――が呼び水となって余計なことを考え始め、結果、自分自身の思考の渦に嵌まってしまったのだろう、と。
別に士郎が精神の迷路に迷い込もうが、勝手に弱気になろうが、アーチャーは一向に構いはしないのだが。むしろ、士郎相手だからこそ、面倒くさいので放っておきたい気持ちが八割を占めているのだが。
それに、こちらが手を差し伸べずとも、最終的には自己解決するだろうということもアーチャーは分かっていた。個人の悩みなど、他人が出来ることと言えば方向性を示してやるくらいで、結局は本人が納得するかどうかでしかない。しかし、生来のお人好しな性質と、一応年長者だという責任感が残りの二割を埋めて、若輩者の悩みの種が芽吹いた原因くらいは聞いてやろう、という気持ちになってしまった。
「――集中できんのなら、止めたほうが良いんじゃないか?」
股間に伸びて来た手を掴んで制止して、アーチャーは士郎に声をかけた。
「……いや、続ける。集中してなかったのは謝るよ。ごめん」
アーチャーの指摘を認めた上で、それでもなお硬い表情のまま、掴まれた手を解いて士郎は行為を再開しようとする。
その頑なさに「面倒くさい」が八割から九割に増えたが、一度関わったものを放置することも出来ず、アーチャーは、己の手の中から逃げようとする士郎の手を更に捕まえて、続きを許さなかった。
「何を思い悩んでいるのか知らんが、そのようにあからさまに態度に出されては、こちらが集中できないのだが?」
「…………」
アーチャーに、そうはっきりと言われてしまっては士郎も観念せざるを得ない。不承不承ながらアーチャーへ施そうとしていた手淫を諦め、彼の上から降りてベッドの端に胡座をかいた。それに倣ってアーチャーも身を起こし、士郎の向かい側に同じように座す。
「――で? 何があった?」
大の男が二人、一糸纏わぬ姿のまま、神妙な面持ちでベッドの上で向かい合っている様は間抜け以外の何者でもなかったが、気にしたら負けだと腹を括り、アーチャーは目の前で口を引き結んでいる士郎へ水を向けてやった。
少しの沈黙の後、タイミングを計るように一度深呼吸をしてから、士郎が口を開く。
「…………と、思って」
「は?」
「アンタを、温めたいと思って……」
歯切れ悪く、秘密を打ち明けるような声で士郎が言う。アーチャーにとっては士郎のその想いが、どういう経緯で発生したものか全く要領を得ないのだが。口先に上った言葉だけを受け取って、必要ないと切り捨ててしまっては意味がない。大切なのは、その先にある心の方だ。辛抱強く、アーチャーは士郎の説明を待った。
「アンタは否定するかもしれないけどさ、今日、寒さで頬や手を赤くしてるアンタの様子を見たら、やっぱりサーヴァントだって生きてる人間と変わらないなって思ったんだ。心だって――今まで出会ったどのサーヴァントも、皆それぞれの色を持っていた。もちろんアンタも――でも、俺がアンタを人間扱いすると、アンタはそれを正そうとするだろ? かと言って、サーヴァント特有の扱いってのは、俺にはイマイチぴんと来ないし……だから、アンタが納得出来るカタチで、俺がアンタにしてやれることって、出来ることは無いのかって、そう考えてて……」
訥々とした喋りではあったが、今日、初市でアーチャーの様子を見て、思ったこと、考えたことを士郎は語り始めた。
「アンタはいつも俺を助けてくれるけど、俺はアンタに何も返せてない。それが歯痒くて、悔しい。例えば今日みたいに、寒さで手を赤くしててもアンタは平気だって言うし、じゃあ、気持ちの方――心をどうにか出来るかって考えてみるけど、誰かを楽しませるような技量が俺にあるとは到底思えない」
渦巻く思考で重くなった頭が上がらないのか、視線は俯けたまま、しかしはっきりと士郎は自身の想いを吐露する。アーチャーへの不満も多少なりとも含んでいるが、ほとんどは自分自身の力不足に対する苛立ちから来るものであった。
「色々あったけど、アンタは俺の旅について来てくれた。俺一人じゃ今頃どこかでくたばってただろうなって本気で思うし。だから俺もアンタの献身に報いたいし、少しでもアンタの力になりたいんだ。でも、その方法が分からない……」
そう言って、とうとう士郎の頭は、旋毛が見えるほどに下がってしまった。途方に暮れた様子は、見知らぬ街で迷子になった子供のようだ。
「――お前、本当に馬鹿だな」
そんな迷い子に容赦なく浴びせられる言葉。しかし、本当に馬鹿にしているというより、むしろ感心しているような響きの声だった。口調も、いつものアーチャーの語り口とは異なり、同級の悪友のような、親しみが感じられるものに聞こえた。
アーチャーの一言で、頭の中を巡っていた様々な想いが一瞬で吹き飛び、士郎はポカンと呆気に取られた。顔を上げてアーチャーの顔をまじまじと見つめる。
「……それは否定しないけど、俺は、本当に悩んでてだな……」
「いや、悪い。貴様の、その悩み自体を否定した訳ではない。私が言っているのは、もっと別の部分だ」
「どういう……?」
「貴様が私に何も返すことが出来ていない、という部分だ。私が貴様の旅に同行しているのが、ボランティア精神にかられてのことだと本気で思っているのか? まあ、何の見返りも求めず他人のために働き続けた結果、
自分の姿を披露するように、アーチャーは士郎の前で両手を広げる。ともすればセンシティブな話題に発展しかねないそれを、どういう顔で見返せばいいのか分からず、奥歯に物が挟まったような表情を浮かべ、視線を彷徨わせることで士郎は誤魔化した。
「えっと……」
話題を元の軌道に戻さねば、と思考を巡らす。
アーチャーが自分の旅に同行する理由とは何か。アーチャーが自分の傍に居ることで得るメリットとは――。
「……俺が間違った道に進んだら、すぐに処理できる、とか?」
そう口にしてから、しまったと士郎は内心で後悔した。直接的な表現を避けたつもりだったが、「処理」も何だかなあと思う。自身を「掃除屋」と揶揄したアーチャーの言葉を肯定するかのような……。
いずれにせよ、アーチャーは元々、士郎を殺すつもりで冬木の聖杯戦争に臨んでいたことは事実であった。いつか、自分のような存在に成り果てる“衛宮士郎”を消すこと。それが、あの聖杯戦争の中で、アーチャーが望んだ個人的な
「――ふむ。まあ、それも一応あるが、それは見返りではなく、責任だな」
「ううん?」
分からない、と首を捻る士郎に、アーチャーは言う。
「例え話ではあるが――右も左も分からぬ中で、自分が道しるべにしている星を同じように見上げている人間がいるという事実は、想像以上に心強いということだ」
それが、アーチャーが得た“答え”。
錆び付いた心に灯る、唯一の希望だった。
「……アンタは、それで満足なのか?」
「私には、十分過ぎる拾い物だ」
「そっか」
分かったような、分かっていないような微妙な顔をしている士郎へ、アーチャーは手を伸ばした。
「わっ――!」
腕を掴まれ、体勢を崩して士郎はベッドに倒れ込む。その上に、覆い被さってくる影。
「アーチャー」
唇を触れ合わせながら、士郎はその影の名を呼んだ。
呼び声に応えるように、ゆっくりと深くなっていく口づけ。彼の求めに応じながら、士郎は思う。
やっぱり、温かい――と。
*
ふと、夜半に覚醒し、アーチャーは目を瞬かせた。カーテン越しに入ってくる人工的な明かりが仄かに部屋を染め、まだ夜が眠る時間帯ではないことを悟る。外から微かに漏れ聞こえてくる喧噪からも、それは明らかだろう。
目の前には士郎の胸があって、寝息に合わせて緩やかに上下していた。視線を少し上にずらせば、己を抱き込んで眠っている青年の顔が見て取れる。目を瞑っているからか、士郎の顔は昼間以上に少年時代の面影を色濃くして、一層あどけなく見えた。
「…………」
ムッと、アーチャーの眉間に皺が寄る。アーチャー自身も自覚があるので少々苦々しく思うのだが、自分たちは、実年齢より幼く見られる顔立ちなのだ。それを改めて認識させられて、何とも言えない心持ちになってしまう。
コホン、と小さく咳払いをして、アーチャーはひそめていた眉を解いた。自らのコンプレックスに煩悶しながら、士郎の寝顔を眺めていたい訳ではない。アーチャーは思考を切り替えた。
夜のさざめきを聞きながら思い返すのは、褥を共にする前に交わした士郎との会話だ。
俺はアンタに何も返せてない――なんて、その言葉を反芻するだけで可笑しくなってしまう。本当に、衛宮士郎は愚かしい。
だが、その愚かしさは、時に眩しさを覚えてしまう類のものだ。それは、かつて憧れた美しいものに似ていた。憧れて、追いかけて――最後に裏切られて、絶望の果てに忘れてしまったもの。
でも、裏切られたのは己が掲げた理想の方で、美しいものは、頭上に輝く星のように、ただ美しいままでそこにあった。無くなってしまったのではなく、忘れてしまったのではなく、嵐の只中で道を探す旅人のように、見失ってしまっただけだ。
誰もが幸福であって欲しいという願いの美しさ。空っぽの胸の中に差した、ただ一筋の光。
それを愚直に追いかける子供の姿は、こんな男がいたんだったと、擦り切れた記憶しか持たない自分でも思い出すほど鮮烈なものだった。
同じ星を見上げている人間がいる。その姿を傍らで見ていると、胸の内に火を灯されたような温かさが宿る。だから――。
「――オレに何も返せていないなんて、思い違いも甚だしいんだよ」
小さく漏れ出た吐息のような声で士郎に向けてつぶやき、薄墨を纏ったような冬の朝がやって来るまでもうしばらく休眠することに決めて、アーチャーは目を閉じた。(了)