Reconnect 02

◆2
 柔らかな光が、あどけない顔で眠る少年の瞼を撫で、夢と現の狭間で揺蕩っていた意識をぷかりと浮上させる。瞼を縁取る睫毛がふるりと震え、むずがるような仕草で眉根が寄せられると、しばらくして、蝶の羽化の瞬間のようにゆっくりと目元の緊張が解けて、琥珀の瞳がその奥から現れた。
 ぼんやりとした熱の塊が乗った瞼は重く、その重さに負けて再び閉じそうになるが、徐々に覚醒してきた頭が違和感を覚えて、何かがおかしいぞ、と士郎に告げる。てっきり桜が寝過ごした自分を起こしに来たのかと思ったのだが、いつもであれば柔らかな声でかけられる挨拶が無い。人が一人通れるか否かの幅だけ開いた土蔵の扉の前に人影は無く、うっかり閉め忘れて寝てしまったか、と思いながら士郎はゆっくりと上半身を起こした。包まっていた毛布が肩から滑り落ちて、軽く埃を撒き上げる。

 毛布や、昨日の晩に投影した品々を片付けて外に出ると、庭の小石を啄んでいた雀が士郎を警戒して慌てて飛び去って行った。ピチチチと鳴く声が、春の朝の空に響く。
 太陽の昇り具合から見ても、まだそんなに遅い時間ではないらしい。寝過ごさなかったことに安堵しながら、士郎はいましがた自分が出てきた土蔵を振り仰いだ。
 アーチャーが召喚されたという場所。昨晩、鍛錬の前に一応様子を見てみたが、士郎にはこれと言っておかしなところは感じられなかった。凛ほどのレベルの魔術師が見れば、何か綻びのようなものくらいは発見できたのかもしれなかったが、その程度の魔術的痕跡であれば、いまとなってはもう見つけるのも困難だろう。
 そして、そのアーチャーだが、昨日、遠坂邸の前で姿を消してから現在まで、あの赤い礼装の端すら士郎は見かけていなかった。何となくではあるが存在は感じられるので、近くにいるにはいるのだろうが、名前を呼んでも声をかけても反応が無い。誰もいない空間へ向かって声を発することの、何と滑稽なことか。霊体化したサーヴァントをはっきりと認識できないのは、魔術師として未熟なせいだと言われてしまえばそれまでなのだが、師の言葉通り一朝一夕でどうにかなるものでもない。であれば、アーチャーが譲歩するべきではないかと士郎は不満に思うのだが、その不満をぶつけたい相手は目に見えない幽霊と化しているので、発散できないそれは腹に溜まって消化不良を起こし、もやもやしたものを抱えたまま朝を迎えてしまった。
「どういうつもりなんだよ、あいつは……」
 これからのこととか色々話したかったのに、と溜め息を吐くように一人で文句を言ってみたところで、それに応える声は無い。「サーヴァントの霊体化に慣れる」の次に、「性格の捻じ曲がった英霊とのコミュニケーションの方法」と、頭の中の解決すべき課題リストに書き連ねて、朝食の支度をするべく士郎は屋敷へと戻って行った。

 台所にはすでに桜が立っていて、小さく鼻歌を歌いながら、味噌汁の入った鍋を火にかけてお玉でくるくるとかき回していた。すでに準備のほとんどが終わったような雰囲気で、やはり寝過ごしたのかと士郎は居間の時計を見上げたが、時計の針はいつもと同じ時刻を指し示している。今日は早く出ると言っていただろうか、と記憶を辿っていると、士郎の気配に気づいた桜が振り返って笑顔を浮かべた。
「おはようございます、先輩。今日は一段と早起きだったんですね」
「おはよう……って、いや、さっき起きたばっかりだぞ?」
 むしろ早く来たのは桜のほうではないのか。士郎が目を丸くすると、対する桜もまた、きょとんとした表情を浮かべて首を傾げた。
「え……? でも、私が来たときには、もうほとんど朝ごはん出来上がってましたよ? てっきり先輩が作ってくださったのかと思ったのですが……」
「……あいつ……」
「えっ?」
「あ、いや、何でもない。昨日のうちに下拵えしといたんだ。だから、さっき起きたばっかりだったけどすぐに作れちまったんだ」
 我ながら少し苦しい説明だな、と士郎は思ったが、桜はそれで納得したようだった。それどころか、まあ昨日のうちにですか、先輩すごいです、などと感心までされてしまい、可愛い後輩へ嘘を吐いた罪悪感が余計にちくちくと胸を刺す。再び鍋に向かい、味噌汁の温まり具合を確認している桜に、ごめん、と心の中で謝って、いまは姿の見えない英霊に対して、桜には分からないくらいに小さく、しかしながら盛大な呆れを込めて士郎は嘆息した。
 十中八九、いや、完全にアーチャーの仕業だと確信する。マスターの前には姿を現さないくせに……と、士郎は苛立ちを覚えたが、あの図体で台所に立ち、一人朝食を作っているアーチャーの姿を思わず想像してしまい、同時におかしさも込み上げてきた。怒るべきか、笑うべきか――迷う表情筋がぴくぴくと痙攣して、それがアーチャーからの間接的な嫌がらせにも思えてくる。胸の内で、くそ、と悪態を吐くと、やや怒りに傾いた感情が、浮かびかけた笑みを押さえつけて、笑い損ねた士郎の顔を歪ませる。
 今日したことと言えば、起床して居間に来ただけだが、どっと疲れが押し寄せてきた。倦怠感に大きさが半分になった目で保温状態になっている炊飯ジャーを見つめ、飯でもよそうか、と、気分を切り替えるつもりで士郎はしゃもじを手にする。しかし、蓋を開けた瞬間に、喉の奥で、うっ、と声にならない小さな唸り声が上がった。
 ほかほかと上る白い湯気の奥、釜の中には憎らしいくらいにつやつやと輝くご飯が炊かれていた。米は、一つ一つの粒が立っていて、同じ米、同じ器具を使って、どうしてここまで差が出るのかと不思議に思ってしまうくらいだ。適当に扱えばアーチャーから殺気が飛んできそうだと、変な緊張感にごくりと唾を飲み込む。何だか釈然としないが、いつもより丁寧にご飯を解して、茶碗は四人分にするべきかと少しだけ悩んだ末に、大河と桜の手前、それは不自然かと思い直した。それに、アーチャーの性格からして自分の分のおかずなど用意していないだろうと予想して、いつもの三人分の茶碗にご飯をよそう。炊き上げられた米は余ることなく、アーチャーを除いた三人で消費されるだろう。何にせよ幽霊に食わせられる飯なんて無いからな! と、士郎は、これまでの苛立ちをすべてそこへ吐き出した。
 その後、いただきますの唱和と共に始まった食卓で、急激に料理の腕が上がったと大河に褒められて、士郎は曖昧な表情を浮かべて誤魔化し笑いをするしかなかった。

***

「…………」
 ピカピカに磨き上げられた台所を前にして、学校から帰宅した士郎は、ついに衛宮家にもブラウニーが棲み始めたか、と思った。実際には、それは妖精ではなく、魔術の世界でも破格の存在である英霊なのだが。ついでに言うと、本来なら帰宅後に洗おうと思っていた洗濯物は庭ではためき、週末にやっつけようと思っていた風呂場のカビは駆逐されていた。
 帰宅を告げる士郎の声に、ひょっこりアーチャーが現れる――などということはなく、無人の家は真空の塊が詰まっているような静けさでひっそりとしていた。その中で、時計の秒針を動かす歯車の駆動音だけが、チッ、チッ、チッ、チッ……と、一定のリズムを刻んでいく。普段は気にならないその音すら、いまは癪に障る。
 怒りの進行度を表すように、徐々に士郎の肌が粟立っていく。しかし、どうしてここまで苛々するのだろうかと彼は考えた。姿を見せろと命令した訳ではないのでアーチャーは士郎の言葉に背いてはいないし、やろうと思っていた家事を済ませておいてくれるのは、何も余計なことではない。
 ただ、士郎はそんな関係性を受け入れるような人間ではなかった。間違っているとさえ思う。
 聖杯戦争中ならば、マスターとサーヴァントは連携して、敵の動向を探ったり、戦闘をしたりする。その中で、互いに生まれる絆もあるだろう。それは、アーチャーが凛を見つめる瞳からも垣間見ることが出来た。よく錬成された鋼に反射する硬質な光ではなく、新緑の若葉に降り注ぐ春の陽射しを湛えた優しい眼差し。親愛、友愛、情愛――そのどれに当てはまるのか判別することはできなかったが、他人の目から見てもそうだと分かるほどには確かな愛情がその目元から零れていた。
 士郎にとって余程印象的に映ったのか、まるで写真のように鮮明に取り出すことのできるその光景は、それを目にしたときの感情も引き連れて来て、士郎を戸惑わせた。あまりにも人間くさくて、思わず蓋をして覆い隠してしまいたくなるが、一度噴き出せば止めどなく溢れてくるものを堰き止める術はなく、臭くて汚くて醜いものだと思い込むほどに、余計に目について気づかされてしまう。
 昨日、遠坂邸の前でアーチャーの眼差しの変化に心がざわついたのは、その変わりように驚いたからではない。悔しさ――否、もっと業の深いものだと士郎は自認する。嫉妬、羨望……胸の奥の、暗くぽっかりと空いた虚から、どろどろとヘドロのように湧き出してくる浅ましく醜悪な感情。あの柔らかな眼差しの一瞥も、自分には向けられない憤り。伽藍堂だった少年には、まだ持て余してしまいそうな感情の発露は、アーチャーに認められたい、受け入れられたいと願う心を浮き彫りにする。
 聖杯戦争を共に戦ってきた彼らとは違い、昨日、晴天の霹靂のように契約を交わした自分たちに、いきなり求めても仕方のないことだと頭では理解はしている。しかし、否定し合い、刃を交え、互いを認め、理解し合った事実は無くならないはずだと士郎は信じていた。なのに、否、だからこそ――
「ああ、もう! 俺だけでこんなに悩んでるのはおかしいだろ!」
 ぐるぐると渦巻き、身体を雁字搦めにしてくる思考を断ち切るように士郎は声を上げる。瞬間、勢いに任せて放ったその言葉に、雲間から差し込む光のような閃きが士郎の頭の中を過った。
「そっか……そうだよな……」
 それこそ本当に鎖から解き放たれたように心が軽くなり、士郎は自分自身に虚をつかれたように呆気に取られてしまった。ぼんやりと呟いた後に、くつくつと笑いが込み上げて来て、一人、肩を震わせる。口元に呆れたような薄い笑みが浮かべられたが、そこに否定的な感情は無く、むしろ、憑き物が落ちたような晴れやかささえ感じさせるものだった。
 士郎は目にしていた台所から背後の居間へと首を巡らせた。そこに座る四人の姿を思い描き、よし、と気合を入れるように小さく頷く。決戦は夜中、と決めて、ひとまず壁にかけておいたエプロンを手に取った。
「さて、と。下拵えだけでも終わらせておくか」

 そうして迎えた深夜零時。いつもの鍛錬の時間に、いつもと同じように士郎の姿は土蔵の中にあった。まだ閉め切る必要はない、と、窓も入口も開け放っていて、そこから差し込む月明りが土蔵の中を舞う埃まで照らしている。
 セイバーと初めて出会ったときのようだと士郎は思った。月光を背負って、金砂のように煌く髪をふわりと靡かせて現れた少女。翠がかった碧い瞳は、心の奥底までも見透かすような強さでこちらを見つめる――その光景が目の前の景色に重なって、頭の中の像が現実に身を結びそうな錯覚さえ士郎に抱かせた。しかし、いまから呼び出そうとしているのは、セイバーではなくアーチャーである。
 薄暗さに目も慣れてきたころ、士郎は土蔵の床に描かれている魔法陣の上辺りに視線を定めた。あのときのセイバーのような眼差しで、何もない空間を見つめる。
 いまの自分はアーチャーのマスターなのだから。二人の間に問題があるならば、片方だけが一方的に思い巡らせているのは傲慢にもほどがある――そう思いながら、士郎は姿無き従者に呼びかけた。
「アーチャー、いるんだろ? 出て来いよ」
 反応無し。しかし、降り注ぐ月の光がしんしんと音を立てそうな静寂が辺りを包む前に、士郎は再び声を上げた。
「おい、アーチャー」
 士郎の声だけが土蔵の空気を震わせる。やはり駄目かと弱気がちらりと顔を出すが、アーチャーのマスターとなると決めたからには、これくらいで諦める訳にはいかない。思い浮かべた少女の、芯が一本通ったように真っ直ぐな姿に勇気づけられながら、士郎はアーチャーを呼び続けた。定めた視線は彷徨わせず、絶対の自信を持って。士郎が取れる手段は限られていて、であれば、それに相手が答えるまで続ける外ない。
「アーチャー! ……ったく、猫でも呼ばれたら身じろぎくらいするぞ――あいつは猫以下か?」
 何度目かの呼びかけの後、思わず吐いた悪態に空気が動く気配がした。ぴくりと反応した士郎の背後から、覚えのある声が聞こえて来る。
「――猫以下とは、これはまた随分と侮られたものだな」
 士郎は振り返った。土蔵の中でもいっとう暗い場所に、さらさらと金の砂が降って来たような輝きが生まれる。光が注がれた先からそれは人の形を成し、やがて一人の男の姿を形作った。
「やっと出て来たな」
「貴様があまりにもピーピーと煩いから、仕方なく出て来てやったまでた」
「そうかよ。……まあ、いいや。今日はお前とこうして話したかったからな」
 暗がりに立つ男に身体を向け、闇の中で浮かび上がるような双眸を琥珀の瞳が真っ直ぐに捉えた。そこに拒絶の色が無いことに安堵しながら、単刀直入に言う、と前置きして士郎は言葉を続けた。
「アーチャー、霊体化するのは極力やめてくれ」
「……なんだと?」
 アーチャーの目が胡乱げに歪められる。据わった瞳はそれこそ鷹を思わせた。真意を量りかねているというよりは、咎めるような角がある。
「痕跡は残すのに姿は見えないとか……なんかこう、もやもやするというか。それなら、常に実体化してもらっていたほうが俺としてもやりやすい。それに、こうやって同じ家に住んでるんだから、顔も合わせず擦れ違いっていうのも何か変だろ」
「貴様の価値観を私に押しつけるな。契約を結んだとは言え、私は貴様と家族ごっこをするつもりなど毛頭無い。思い違いも甚だしい」
「その割には、掃除・洗濯・炊事を率先してやってたじゃないか」
「タダ飯食らいは私の矜持に反するからな。それをネタに強請られても癪だ。自己防衛の一つというやつだ」
「強請るって、お前……俺、そんなことしないぞ」
「どうだかな。――それに、だ。私が常に実体化などしてみろ、貴様の魔力量ではすぐに底を突くぞ」
「それは……」
 アーチャーの言葉に口を噤み、士郎はそこで初めてアーチャーから視線を外した。思案するような瞳は床へ落とされ、月光が睫毛に遮られて影を作る。
 明るさを失くした瞳に諦めのようなものが見え、アーチャーは士郎には分からない程度の小さな息を吐いた。そこで初めて、自分が落胆していることに気がついて、自嘲めいた笑みが彼の口元に浮かんだ。この時代に喚び出された理由も、衛宮士郎と契約するに至った原因も分からないまま、英霊として、サーヴァントとして、本来の役割を果たしていない自分が、この子供に一体何を期待していたのか、と。それでも、割り切れない感情が燠となって、彼の心の中に燻り続ける。
 しかし、アーチャーが見たのは諦めではなかった。決意の前に己の心と向き合う刹那、内へ向いた意識が外界との接続を切ったときの空白、その一瞬だった。いま、少年の顔には若者らしい瑞々しい生気が満ち溢れ、陰影のついた瞳は煌々とした輝きをより一層、際立たせている。たまゆらの静寂の後、日の出前の空がバラ色に染まるときのような美しい心の動きを目にして、アーチャーを英霊たらしめている精神の在り方が反応し、打ち震えた。
「それは、何とかする。俺は絶対に、お前を諦めたりなんかしない」
「何とか、とは具体的にはどうするのだ。どうせ考えも無しに物を言っているだけだろう?」
「そんなことはない! 俺だって前より成長はしてるんだ……とにかく、霊体化禁止! いいな!?」
 押し切るように言って、士郎はアーチャーに背を向けた。伝えることは伝えたと、その背中が言っている。
 月の光を湛えた鷹の目が、背を向けて立つ士郎の姿を映す。やや頼り無いながらも、すっと背筋を伸ばして立つ姿は、すくすくと枝葉を伸ばしていく若木を思わせた。否、実際にそうなのだ、と、アーチャーは思う。軽く瞑目し、成長する枝の伸びる先に想いを馳せる。
「……了解した。どうなっても知らんぞ」
 突き放すような言葉とは裏腹に、そこに棘は無く、低温の余韻を残して足音が遠ざかると、ギイ、という鈍い音と共に土蔵の中に入り込んでいた淡い光が遮断された。闇の奥に、ぼやぼやと何かが潜んでいるような暗さがいや増したが、士郎の顔にはそれを恐れるような様子は無く、むしろ、出て行きざまにきちんと扉を閉めて行ったアーチャーの律義さに、小さな笑みを口元に浮かべていた。

 翌朝。いつもと同じく土蔵で一晩を明かしてしまった士郎は、ひとまず戻った自室で障子戸の戸枠に手をかけたまま、へらりと締まりの無い笑みを浮かべていた。部屋を覗くとアーチャーが腕組みをして座っていて、その姿をまじまじと見つめてしまってから十数秒後に、寝起きの頭がじりじりと、油を点された歯車よろしく回転し始めて、昨晩のやり取りが蘇ってきたのだ。ジト目で睨んでくる英霊の視線が痛い。
「よもや貴様、忘れていた訳ではあるまいな?」
「ま、まさか! あ、おはよう、アーチャー!」
 苦し紛れの挨拶に、おはよう、そして死ね、と不機嫌な声で返される。朝からあんまりな挨拶だが、記憶から一瞬でも綺麗さっぱり抜け落ちていたのは弁明しようもない事実なので、気まずい手前、今回ばかりは受け入れることにする。しかし、まじまじと見つめてしまったのは、何もアーチャーが実体化していたのを、起き抜けのせいで処理し切れなかっただけという訳でもない。いまのアーチャーは昨日とは打って変わり、見慣れた赤い外套ではなく、黒のシャツと黒のスラックスという出で立ちに変化していた。
「何をまだジロジロと見ている」
 士郎の不躾な視線に更に機嫌を損ねたのか、アーチャーの眉根が寄る。
「……ん? ああ、いや、服が変わってたからさ」
「常に実体化していろとのマスターの仰せだからな。あの姿のままでは人目につき過ぎる」
「うん、まあ、そうだな……」
 不満げな言葉を投げつけられても、暖簾に腕押しとばかりに士郎からの反応は薄い。口では応えつつも何やら思い巡らせている様子で、ぼうっとアーチャーの姿を眺めている。ゆらゆらと揺蕩うような視線で頭の天辺から膝先までを辿られると、さすがのアーチャーも薄気味悪さを感じたのか、目頭の辺りに皺を作って士郎を見た。
「……何を考えている、衛宮士郎」
「ちょっと待っててくれ」
 成立していない会話にアーチャーは目を剥いたが、彼が引き留めるよりも先に床板がギッと鳴いて、寝癖の立った赤い後頭部と、ひらりと振られた右手が障子戸の向こうへ消えて行ってしまった。ややあって、奥からガタガタと何やら音が立ち、その音が止んだかと思えば再び赤い頭が部屋の前へ現れる。
 唐突な行動に、士郎が立ち去った方向へ怪訝な顔を向けていたアーチャーの視線が、その険しさを伴ったまま戻って来た士郎の腕へと移動する。そこには、背広の上着が一着、引っかけられていた。ダークグレーの生地で仕立てられたそれは、くたびれた様子はあっても皺が一つも無いことから、クリーニングに出されてから一度も袖を通されていないことが窺える。
「それは……」
「俺もちょっと忘れてたんだけどさ、お前の格好見てたら思い出した。覚えてるか? 親父が昔、来てたやつなんだけど」
 伸ばされた手からそっと上着を受け取ったアーチャーの指が、己の記憶を辿るように布地の上を滑る。指の腹をさらさらとした感触が擽っていくが、彼らの養父――衛宮切嗣がこれを身に着けていたという明確なイメージを呼び起こすことは無かった。
「いや……もう、忘れてしまったな」
「そっか。まあ、俺も親父がそれ着てるの数回しか見たことないからな。どちらかと言うと、着物の印象のほうが強い」
 首元に緩くネクタイを巻き、糊の効いていない背広と年季の入ったコートを纏った切嗣は、一見、頼り無さを感じさせる男だったが、子供ながらに、否、子供だったからこそなのか、士郎はその裏にあるものを感じ取って、その認識を改めた。へらりと笑っていてもどことなく張り詰めた空気が滲み、かっこいいと純粋に憧れる反面、何となく不安を覚えていたのも、より着物のイメージを自分の中に定着させている要因なのではないかと、いまの士郎は思う。荷造りなどしていた様子も無いのに、気がつけば背広を着てふらりと出て行ってしばらく帰って来ない切嗣より、家で寛ぎながら、着物姿で穏やかな眼差しを注いでくれる切嗣のほうが好きだった。
 アーチャーの姿がそこはかとなく、いまは天国へ旅立ってしまった養父を彷彿とさせ、懐かしさと、過去の自分に引っ張られて来た子供じみた寂しさが、士郎の胸の底に浸み出す。混ざり合うことはなく、しかし、切り離せずに寄り添う感情に仄かに瞳を揺らがせながら、アーチャーの手の中にある上着を目で示して士郎は言った。
「それ、試しに着てみてくれ」
「何故だ」
「まだ日が落ちると冷えるだろ? だから、夜出歩くときにさ。今の格好には、そっちのほうが合ってるだろ」
「たわけ。霊体である私に暑いも寒いも――」
「嘘吐け。実体化している以上あるだろ。それに、この時期にそんな薄着で出歩いてたら、それこそ人目につき過ぎる」
「……ちっ」
 先ほどの発言を盗るだけでなく、不敵な笑いも頬に含ませている士郎の憎らしさに、アーチャーが舌を打つ。忌々しげに目元を歪めて士郎を睨むが、皮肉混じりの反論が飛んでくることは無かった。むう、と口を引き結んで、不承不承といった様子で手の中の上着に視線を落とす。
 生前にすら切嗣の服を着たことがあったかどうか。もしかしたら、うたた寝をしてしまった自分に切嗣がかけてくれたかもしれない。もしかしたら、切嗣に憧れていた自分が遊び半分に着たかもしれない――しかし、優しい思い出のほうこそ風雨に晒され続けた土塊のように脆く、さらさらと指の間から零れ落ちて行ってしまう。
 感傷めいたものがアーチャーの胸に滲んだが、いまの自分が抱くものではない、と、すぐにそれを打ち消すと、おもむろに立ち上がって上着を翻して袖を通した。

 切嗣の服は、申し訳なさそうにアーチャーの身体を包む。

「あー……やっぱり、サイズ合わないか」
「……もういい。人目が気になるのならば、やはり霊体化して――」
「それは駄目だ。――よし、今度の日曜に、お前の服を買いに行くぞ」
「……は?」
 それは決定事項なのか? とは、聞くまでも無かった。アーチャーの反応こそが不思議だと言わんばかりに首を傾げる士郎の姿が、驚きに見開かれた目の中に映る。
「無い物は買いに行くしかないだろ」
 何を当たり前のことを――と、言おうとして、何とはなしに時計を確認した士郎の顔に、さっと焦りの色が浮かんだ。分針は、いつも台所に立っている時間を指し示している。
「やばい! もうこんな時間か! アーチャー、悪い。その上着、親父の部屋に仕舞っておいてくれ」
「おい。朝食の支度なら、今日も粗方終わらせて――」
「なら余計に桜が来る前に台所にいないと。また昨日みたいなことになっちまう――あ、藤ねえと桜には今晩お前のこと紹介するからそのつもりでな。じゃ、頼んだ」
 ついでのようにさらりと、割と重要なことまでつけ足して、ばたばたと慌ただしく士郎は部屋から出て行ってしまった。
「待て! 勝手に決めるな! 人の話を聞け、衛宮士郎!」
 遠ざかる足音に向かって叫ぶも、戻って来る気配など無い。色々と言いたいことはあったが、大河や桜にばったり出くわす危険を冒してまで士郎を追いかけることなどできず、仕方なく、指示された命令をこなすべく、アーチャーは憮然とした顔で上着を脱ぎ始めた。

***

 冬木大橋の遊歩道の上で、ゆったりと流れる未遠川を眺めながら、士郎は安堵とも疲れともつかない息を吐いた。
 日曜日。宣言通り、士郎はアーチャーを新都に連れ出した。家を出る直前まで渋っていたのを、買い物ついでに街の見回りをすれば召喚の原因も分かるかもしれない、などと説得した手前、行きも帰りも徒歩なのだが、肉体的よりも精神的な疲労に士郎は参っていた。それは、ひと息ついて佇む士郎と、士郎から少し離れた場所に待機しているアーチャーの足元に置かれている紙袋の数が物語っている。
 どうしてこうなった、とは、買い物を終えた士郎の心の声だった。アーチャーの上着だけを買いに来たはずが、自分のセンスなど高が知れている、と、店員に言われるがままに商品を手にしていった結果が招いたことなので、自業自得なのだが。当然のことながら結構な金額になってしまい、内心冷や汗ものだったのに、それに加えて割と良いお値段の調理器具セットまでもが紛れているのが謎である。アーチャーの口車に乗せられたような気もするが、士郎はもう考えることを放棄していた。それほどまでに疲労困憊だったが、しばらくはバイトに精を出さねばなるまいと、げんなりしつつも来月のシフトの修正を頭の片隅に置く。
 遊歩道の上にいると、潮の匂いが微かに混ざった春風が、歩き回って火照った頬や首筋を撫でて行く。心地良さに首を仰け反らせると、青く染めた薄いヴェールを広げたような空が頭上に広がっていた。太陽はやや傾きかけているが夕方というほどではなく、春の穏やかな午後のひとときだった。少しだけ心も身体も癒されて、周囲に気が回るようになると、放置していた従者のほうに士郎は目を向けた。
 アーチャーは士郎と同じように川のほうを見ていた。しかし、景色を愛でている様子も、風にそよがれて休んでいる様子も無く、気難しげな顔をして、いつもの三本線を眉と眉の間に刻んでいた。
「眉間、皺」
 とんとん、と、士郎が自分の眉間を指で叩いて指摘すると、一層、皺が深くなる。よく疲れないものだと別の意味で感心しながら、身体ごとアーチャーのほうを向いて士郎は遊歩道の手すりに背中を預けた。今朝からの不機嫌の延長かと思っていたが、こうしてアーチャーを身体の正面で捉えてみると、どこか心許ないような雰囲気が伝わって来る。
「……やっぱり、居心地悪い、か?」
 おずおずと窺う士郎に、穏やかな川面を見つめたままアーチャーが答える。
「笑えぬ漫才を見せられている心地だ。いや、見せているのは私のほうか」
「アーチャー、それは……」
 思わず、右手で左手を庇うように触れていた。アーチャーの自嘲が刺さり、抉られた部分に冷たい風が吹くような心地がした。それは、どうあっても自分に赦しを与えないアーチャーの在り方を知りつつも、この状況を強いている「衛宮士郎」の傲慢さを自認しているからだった。
 考え込むように俯く士郎の旋毛に向けて、溜め息が落ちて来る。
「そんな顔をするな。貴様に責任がある訳ではない。むしろ、自分に責任があるなどと、思い上がりも甚だしい」
 士郎を一瞥し、先ほど士郎がしたように、アーチャーが眉間を指で叩く。士郎が指先で眉と眉の間に触れて皺を伸ばすようにそこを軽く揉んでいる間に、アーチャーは言葉を続ける。
「緩やかに続く日常が馴染まないと思うほどに、私は戦いの中に身を置き続けて来た。しかし、それが英霊というもの、そうあれかしと望まれて存在する我々の性分なのだ」
 アーチャーの目が、どこか遠くを見るように細められて淡い色に染まる。穏やかだが、薄い膜のような切なさに覆われたそれは、春の空によく似ていた。見ているこちらが胸を摘ままれるような目を見返して、士郎はためらいがちに口を開いた。
「……あのさ、お前は呆れるかもしれないけど、俺は、お前がこの冬木に召喚されて、良かったんじゃないかって思ったんだ。ヒーローだって、ずっとずっと戦い続けてたらボロボロになっちまうだろ? それで立ち上がれなくなったら本末転倒だ。だから、お前には普通に生活して欲しかったというか……」
 徐々に尻すぼみになっていく士郎の声。しかし、その言葉にアーチャーの目は見開かれて行く。きっと、生前の自分だったら口にしなかったであろう言葉。そして、少し前までの士郎も口にしなかったであろう言葉。「正義の味方」というゴールに向けて、ひたすらに走り続けていた身では。
「――成程。つまり今回の召喚は、いままで散々こき使って来た道具への「世界」からの有給休暇のようなものか。まあ、そんな甲斐性がアレにあるかは知らんが」
 ふっと、緩む気配。自分の言葉に気恥ずかしさを感じて視線を彷徨わせていた士郎は、弾かれたようにアーチャーを見た。
 あの夜、向けられなかった眼差しが士郎へ注がれていた。じわじわと耳の裏がこそばゆくなり、それは、子供の頃の懐かしい記憶にも繋がる。
「貴様にしては中々面白い発想だ。しかし、そういう台詞はもっと堂々と胸を張って言うべきだったな」
 からかうような口調にいつもの辛辣さはなく、それがまた慣れない響きで士郎の耳を撫でて行く。先ほど以上の気恥ずかしさに、風に晒されて涼んだ頬が再び熱を帯びるのを感じて、士郎は慌ててアーチャーに背中を向けた。足元に置いていた紙袋を手に持つと、ずんずんと深山町方面へと足を進め始める。
「俺はお前みたいに気障じゃないからな! ……ほら、帰るぞ!」
「おい、待て。何を慌てている」
「うるさい。置いて行くぞ!」
 撥ねつけるように叫ぶ声に、置いて行かれたところで痛くも無いのだが、と思いつつ、足元の荷物を手にする。先を行く背中を眩しそうに見つめると、アーチャーもまた少年が進む道へと同じ方向へ向けて、足を踏み出した。

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